兵庫県の伊丹市で、まちづくり基本条例の見直しにあたり、市民会議のメンバーを、無作為で抽出した市民から選ぶそうだ。
2014年5月14日 神戸新聞「条例見直し会議 全委員を市民から無作為抽出 伊丹市」
通常、このような委員は、行政が選んだりするもので、ランダムサンプリングで選ぶことは少ない。しかも全員をこのような形で選ぶというのだから驚きだ。
どうしても行政が委員を選ぶと、行政に都合のいい人が選ばれたり、一般市民ではなく特別な人が選ばれたりするので、良くない面がある。そしてこのような観点で考えれば、今回の取り組みは非常に評価できることだといえよう。
ただ同時に、次のようなリスクもある。
1つは、地域を反映した人が集まるとは限らないことだ。
市政への考えは、性別・年齢・家族構成・所得・職業など、様々な要素に影響を受ける。しかし単純に無作為抽出を行うと、このような面が反映されない。上記のように、行政が委員などを選ぶ場合、問題もある面もあるが、このような面も考慮しながら選んでいるのが常である。
2つは、議論がまとまりにくくなる可能性がある。
行政が選んだ場合でもそうだが、全く関係ない話をしたり、建設的な話をしなかったりする人がいるものである。特に、一般の市民の場合、行政の事情が分からず、不可能な意見が出たりすることもある。
このようなことから、議論がうまく進まない可能性がる。
3つは、専門的な知識がなかったりすると、逆に行政主導になる危険性もある。
一般市民の視点は重要ではあるが、どのような問題でも、法律や行政手続きなどが複雑に絡んでいる可能性が高い。そうなると、そのような専門知識に委員が取り込まれ、結局は行政がコントロールしやすい状況も生まれる可能性が出てくる。
つまり、このような取り組みは民主的でもあるが、同時にリスクもある取り組みでもあるのだ。
特にこれで思い出すのが、古代のギリシア・アテナイの例である。曖昧な記憶で恐縮だが、アテナイは民主主義の発祥といわれているが、議員はくじ引きで選ばれていた。しかし、専門知識がない者も議員になるので、必ずしもうまく機能しなかったとも言われている。
古代ギリシアよりも、現在のほうが教育も進んでいるし、情報も容易に入手できる。その意味で、一般の市民でも対応できる人も多いだろう。
ただ、民主的であることと合理的・機能的であることは異なるということを表してもいると思う。
上記のようなリスクや歴史を考えたとき、伊丹市の取り組みがうまくいくのか、注目に値する。
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