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失われる大都市の創造性

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創造性と町

 ここ最近、徳島県の神山町が注目を浴びている。
 注目を浴びているポイントは、人口が増えているという点と、過疎とは真逆なような、ある種の創造性(クリエイティブ)が結びついている点である。



篠原匡『神山プロジェクト 未来の働き方を実験する

 事例としては非常に面白いが、この事例について、個々にどうこういうつもりはない。
 しかし、創造性と町という関係は、非常に重要である。

 例えば、アメリカの学者であるリチャード・フロリダは、クリエイティブな都では経済が発展し、所得も高いとしている。



リチャード・フロリダ『クリエイティブ都市論―創造性は居心地のよい場所を求める

 しかも面白いのは、(荒く言えば)このクリエイティブ性という点は、ビジネス上のクリエイティブ性というだけではなく、芸術家なども含んだものであり、芸術家などのクリエイティブな人が多い地域は所得が高く、芸術家などはクリエイティブな町を求めるとしている点である。

 この点について、すべての地域で創造性が重要であるとは思わないし、創造性=経済発展とはいかないとは思う。
 しかし、神山町の例ではないが、地域の発展において、創造性は重要なファクターの一つであるとも思う。


実は大都は創造性的ではない?

 このときに思うのが、「創造性=大都市」という見方である。

 確かにこれまでは、大都市は創造性と結びつきやすかった。小さな町と違って、閉鎖的でもなく、しがらみも少ない。様々な人たちがおり、多様性も有しており、この多様性を支える寛容性もある。何よりも新しいものが大都市から生まれるという刺激もあった。

 そしてこれらはいずれも、創造性という点で重要な要素である。

 しかし現在の東京などの大都市を考えたとき、実はこれらの創造性を支える要素が失われつつあるようにも思う。

 例えば、一見新しいようだが、大手企業を中心とした商業施設・町並み。大手広告代理店などを中心とした、綺麗だが差異の乏しい広告物。いずれも一流だが、一流ゆえの画一性もあり、多様性は失われているようにも感じる。

 また、寛容性についても、性差などでも寛容であるかもしれないが、マナー、自転車、喫煙など違う形で、実は寛容性を失っている。例えば、交通に関して言えば、地方ではバスなどが中心であり、数分の誤差は当たり前である。しかし、東京の鉄道などは、1・2分の誤差が問題となったりもする(問題にならなくても、ちょっと遅れただけで、必ず謝りのアナウンスが入る)。

 このように考えると、東京などの大都市は、実は創造性を失いつつあるようにも感じている。


地方のチャンス

 創造性に関して、神山町の例が、すべてではないと思う。

 ただ、創造性と町の発展は、ある種の関連性はあることを考えると、東京などの大都市は創造性を発揮しにくい状況になりつつあるようにも思い、その点で、地方・地域にとっては、チャンスでもあると思う。

 時折、大都市から見て、地方のいい加減さやルーズさを、天下り的に評されることもある。
 しかしそこには反面、独自性や寛容性など、創造性の重要な要素も含んでいる。

 地方では問題ないが、東京などの大都市の住民が許せないことなどは、都会では取れないポジションである。そして、それは寛容性や創造性と関連していることを考えると、実は重要な要素ではないかと思う。

 ベクトルとしては同じであっても、上記のようにある種、暗黙的には解釈が変わりつつある中で、独自性や寛容性ということを考えたとき、地方は大都市ではできないことが可能である。

 例えば、廃校があったとき、東京などの大都市では単に売却などという選択肢になるかもしれないが、地方では(売れないという面もあり、逆に)創造的な活用が可能だ。芸大生などに、好き勝手に廃校をアレンジしてもいいとしたら、そこにはその芸大生は集まるだろうし、とてつもなく面白い活用があるかもしれない。

 いずれにせよ、都会は実は創造的な要素を失っている部分があり、地方だからこそ創造性を提供できる可能性があることを考えたほうがいいと思う。

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